(備忘録)東海自然歩道ステージ1

長い中断時期を含め、7年前、定年退職日の三日前に全線を歩き終えた東海自然歩道。大阪箕面公園から東京高尾山まで、とぼとぼ歩いた記録をブログに残しておこう、と思った。「ステージ1」とは私がかってにつけた名称だ。愛知、岐阜をラウンドするコースで、名古屋に住まいする私にとってはここからスタートするのが一番自然だった。記録を整理していて改めて思った。自転車の助けなしにはこの旅は成り立たなかった、と。



1995年秋、東海自然歩道を辿る旅を再開した。腰椎圧迫骨折の事故から4年。足の痺れは徐々に軽くなっていた。無理をすればすぐ再発することに変わりなかったが、再び山を歩ける予感がしてきた。
恐る恐る近在の山を歩いてみた。そして自信をつけ、再び東海自然歩道に足を踏み入れた。


【1995年11月4日、金蔵蓮(ごんぞれ)峠〜寧比曽岳往復。同行者一人】再開した東海自然歩道を辿る旅の第一歩は紅葉した三河の山だった。その静けさ、澄んだ空気。足下には紫の花をつけたリンドウ。筈ヶ岳(985m)から寧比曽岳(1120m)に至る稜線は紅葉のトンネルだった。
歩くことへの意欲が体の底から湧き上がってくるのを感じた。寧比曽岳から鳳来寺までは以前にぼちぼち歩いてつながっている。東海自然歩道を継続して全線歩くという決心は、この日、三河の山を歩きながら固められていった。
帰路、山腹に仰向けに横たわり夕焼けに染まる寧比曽岳をみ続ける初老の男性がいた。自分も気のすむまで夕日に染まる山々をみていたかったが、先に返した同行者が気になり金蔵蓮峠へ急いだ。[写真は奥三河の山々 左手は山菜の宝庫、出来山]



【1996年11月10日、足助町安実京〜金蔵蓮峠(単独)】金蔵蓮峠に帰りの足用に自転車をデポし、巴川沿いの発電所に戻りここからスタート。いくつかの静かな山里を縫い綾渡高原平勝寺へ向かう。591mのピークに立つと、眼下に神越渓谷が深く切れ込んでいるのが望まれ、折り重なる山並みの向こうに先週登った筈ヶ岳が優美な姿を見せていた。
平勝寺から再び静かな山里を歩き案内にしたがって山道へ入る。金蔵蓮峠までは静かな山道が続いた。峠にデポした自転車で山間のダウンヒルを楽しむ。神越渓谷の紅葉は最高潮で通り過ぎてしまうのが惜しく、しばらく谷間に佇んだ。[写真は平勝寺へ向かう途中に点在した山里の一つ、有洞集落]




【1995-11-18 足助町大国橋〜足助町安実京(単独)】紅葉の名所香嵐渓を紅葉の最盛期に歩いた。安実京の変電所横に自転車をデポし、スタート地点の大国橋に戻るのが大変。渋滞のため裏道から裏道をつないでやっと大国橋の袂にたった。
巴川の左岸を歩く。香嵐渓中心部が近づくと焼肉の煙と匂いが立ち込める。人ごみを分けながら進む。観光スポットを抜け川の上流部に出ると人気はなくなり、うそのように静かになった。[写真:巴川の紅葉]



【1995-11-22 勘八峡〜足助町大国橋(同行者一人)】大国橋へ自転車をデポし勘八峡に戻る。国道153の駐車帯に車を置き出発。勘八牧場の牛たちに見送られて丘陵歩きを楽しむ。里山を歩く楽しさの見本みたいなところだ。千鳥寺でおにぎりを食べ、再び絵に描いたような里山風景の中を元山中峠へ向かう。
大国橋で同行者を待たせ車を回収しに勘八峡まで自転車で戻る。国道153はup-downが多く消耗しママチャリの限界を感じた。これを機会に内装3段式のギヤが付いた新鋭車を購入した。14800円の投資だった。[写真:勘八牧場]





【1995-12-2 勘八峡〜猿投神社(同行者一人)】矢作川を渡り里山の中へ入っていくと、西広瀬小学校の子供たちが作った賑やかな看板が面白かった。「虫たちの草むら」「キリギリスの村」を楽しんでいくと「いっぷく峠」へ出た。ここで、二服も三服もしてしまった。「キリギリスの村」「チョコレートの森」を通過すると、楽しかった里山の小径も終わり昭和の森公園に出た。木々はすっかり葉を落とし、広大な公園は閑散としていた。猿投神社に同行者を待たせ、デポした新鋭車にまたがり車の回収に向かった。後日、西広瀬小学校の子供たちにお礼の手紙を出したら、親切な返事が来た。[写真:昭和の森公園]
【1995-12-10 猿投神社〜雲興寺(単独)】猿投山はポピュラーな山だ。12月というのに幾組みかのファミリーとすれ違った。山頂で寒風の中宴会している熟年の団体がいた。その中の一人にシャッターを押してもらったが、これは写ってなかった。猿投山もその北面は人気がなく、静かな山歩きを楽しんでいたらどこからともなく尺八の音がしてきた。山中の独奏者としばらく話し込み雲興寺に出た。戸越峠から飯野まで約4km、快適なdown-hillを楽しむ。飯野からは自転車を押す場面も多かった。





【1996-1-3 雲興寺〜定光寺(同行者一人)】同行者が植物に詳しい人で、定光寺の丘陵を歩いている時足下を指差して「これは冬イチゴ、食べられる」。畦道に群生している植物を指差して「あれは彼岸花の冬の姿。冬の間に日の光を浴びて栄養補給している」などと教えてくれた。岩屋堂でおでんと五平餅を食って力づけ、雲興寺への最後の山越えにかかる。この日3度目の山越えで雲興寺へ着いた時はだいぶ消耗していた。
自分にはまだ定光寺までの長いロードが控えている。たこ焼きを喰って自転車にまたがる。途中で暗くなり雨も降ってきた。合羽をつけ、ラテを灯し、登り坂を登りきる元気もなく押して歩いた。たどり着いた定光寺の対岸には千歳楼の灯が不夜城の如く輝いていた。この「政府公認国際観光旅館」も今は廃業し、荒れるにまかせている。この日教えられた冬イチゴは、その後各地でお目にかかり賞味するところとなった。[写真:宮刈池近くの茶畑と桐の大木]




【1996-1-21 定光寺〜内津峠(同行者一人)】定光寺の城嶺橋を渡り、JRの線路を潜って丘陵地帯を歩く。たくさんの人とすれ違った。人気コースなのだろう。道樹山山頂のお堂で休んでいたら細野方面から多くの人が登ってきた。弥勒山山頂からは春日井市全体が見渡せそうな展望を楽しんだ。桧峠から弥勒山へ至る稜線は起伏が激しい。体力の弱った同行者は辛そうだった。県道に出たところで同行者を待たせ、自転車をとりに内津峠へ急いだ。
[写真下右:弥勒山からの展望 入鹿池が見える]



【1996-2-11 奥入鹿橋〜内津峠(単独)】五条川にかかる奥入鹿橋の袂に車を置き、川沿いに歩く。35年前にこの辺りを歩いた時、五条川の清流は強く印象に残っていた。流れはだいぶ汚れたようだ。コースは渓流を離れ、山の中へ入ってゆく。途中何度かMTバイクと出会った。北山橋中央自動車道をまたぎ内津峠へ出た。前回と同じところにデポした自転車にまたがり奥入鹿橋に戻った。【写真上左。MTバイクとよく出会った山道】





【1996-2-24 奥入鹿橋〜善師野駅(単独)】前の周と同じく奥入鹿橋の袂に車を置く。入鹿池を離れて林道を歩いていると、道端で何かを拾っている人がいた。聞いてみると拾っていたのは「フジの実」で、フライパンで炒って食べると旨いそうだ。bird-watchingをしているというフジの実採集者と分れ、雪の残る愛岐丘陵を行く。
高校生の時、自分が初めて歩いた「山」がこの愛岐丘陵だった。この地域も変化が激しく当時の記憶も定かでないが、歩いていると昔が思い出され懐かしい。雑木林の向こうでは、昔と同じように尾張富士と本宮山が背比べをしていた。[背比べする本宮山(左)と尾張富士]


【1996-3-2 善師野御嵩町下切(同行者一人)】自然歩道の趣があるのは善師野駅付近から、東海自然歩道南回り北回り分岐点まで。あとはひたすら舗装道路を歩くことになる。広い道を車とともに歩くのは楽しいものではない。同行者は疲れたらしく可児駅近くで別れた。横殴りの雪の中、住宅団地の中で道が分からずうろうろした。可児工業団地を横切り、寒風に吹かれながら川沿いの道を自転車のデポ地に向かった。[写真:自然歩道南回り北回り分岐点]

【1996-3-16 御嵩町下切〜御嵩町和泉式部碑(単独)】相変わらず舗装された車道を行く。泳宮付近は町並みもやや落ち着いたが車道歩きが続く。可児市大萱で県道を離れ地道となり一息つく。やがてコースは可児市御嵩町との行政境界行くようになる。予定していたコースは宅地造成のため閉鎖されていた。御嵩の森を強引に下り、御嵩城址を経て中継点である和泉式部碑へと向かった。[写真:このころほとんどのコースで帰りの足に使った自転車。下切にて]





【1996-3-31 御嵩町和泉式部碑〜細久手(単独)】細久手宿へ自転車をデポしスタート地点へ戻る。井尻、西洞、謡坂、津橋と、通り過ぎた山間の里はどこも梅が満開だった。このコースは遺跡が多い。数多くの遺跡をみながら石畳の上を歩いていると「旅人」としての感慨が沸いてくる。皇女和宮が所望したといわれる「一呑の清水」は澱んでいて、手を洗うのもはばかられた。津橋から平岩へ至る旧道はよく整備されていた。「江戸へ90里、京へ42里」と記された一里塚の上で昼寝をしていたら、一瞬江戸時代にタイムスリップしたような気分になった。細久手から和泉式部碑までの標高差は290m。快適なdown-hillで旅を締めくくった。[写真:謡坂の石畳]


【1996-4-14 深萱立場〜細久手(単独)】春のうららかな一日、温かい陽射しを浴びて、うぐいすの鳴き声を聞きながら再び中山道を歩いた。この日は東から西へと前回とは逆コースで細久手を目指した。帰途の自転車のことを考えれば、標高の高い細久手をゴールにせざるを得ない。深萱立場の付近に車を置き山辺の道を行く。この辺りは標高400m〜500mくらいあり、春の訪れが遅い。大くて辺りでやっと梅が満開だった。この、かっての宿場街も馬篭妻籠に負けないくらい昔の面影を色濃く残しているが、大通りに人影はない。その大通りを一人歩いていると江戸時代にタイムスリップしたような感じにとらわれた。石畳が残る琵琶峠を越え細久手へ。背後を振り返ると白い御岳が眩しかった。【写真左:琵琶峠へ至る石畳の道 写真右:開元院にて】




【1996-4-21 深萱立場〜野井天長寺(単独)】
深萱立場から今度は東に向かって歩を伸ばす。静かな田園地帯だ。桜も満開だ。そんな風景の中を大きな捕虫網を持った青年が2人、陽炎に揺れながら、蝶を求めて畑の中の横道にそれて行った。山間の里、四ツ谷では桜のアーチに迎えられた。
空は青く、恵那山がひときわ高くその姿を見せる。周囲の山々に比べてその山容の大きさが印象的だ。懐かしい友人に会ったような感慨で恵那山を眺めた。
乱れ橋、乱れ坂、首なし地蔵、槙ヶ根の追分と、昔を今に伝える旧蹟が続いた。中仙道を辿る旅も槙ヶ根の追分で終わる。

中央自動車道をガードで潜り野井へ向かう。途中、恵那山、白い木曽山脈、御岳が一望できるview-pointがあり、越をおろして眺めを楽しんだ。そこへ夕立山まで行ってきたという御婦人が通りかかり、ヨモギの天麩羅が旨いことを教わった。早速足元のヨモギを採集した。野井の里でも満開の桜に迎えられた。
家へ帰り、早速ヨモギの天麩羅をあげた。春の香りが口の中一杯に広がった。シゲの53回目の誕生日だった。[写真:四ツ谷付近から恵那山]

【1996-4-28 野井天長寺〜岩村駅(同行者二名)】
岩村駅付近に同行者の車をデポしスタート地点に戻る。久しぶりに自転車のお伴なしの旅だ。天長寺から40分も歩くと夕立山高原に付いた。かって大名街道と言われた地帯だがその面影はあまりない。所々に年老いた松が残っているだけ。明るく開けた高原は今が桜の満開だった。
立山高原から降り立った根ノ上集落では、田んぼの畦を埋め尽くしたタンポポに迎えられた。日本の原風景を思わせる里を抜け岩村の町に向かった。[写真:夕立山高原]





【1996-5-3 岩村駅明智駅(同行者一人)】
前の週と同じ岩村駅付近に車を置き、明智鉄道の線路沿いに歩き出す。この日も春爛漫。田圃から蛙の大合唱が、木立からはうぐいすの鳴き声が嬉しい。陽気に誘われて、蛇も道路に出て昼寝をしていた。道端では農作業を終えた青年が、トラクターを洗っていた。飯高観音、姥石石仏群、安住寺で休憩を取りながら里と里をつないで歩いた。交通の便もよく人気コースらしく時々walkerとすれ違った。明智駅から満員の明智鉄道に揺られて岩村駅へ戻った。[写真上:明智鉄道]



【1996-5-19 矢作第一ダム〜明智駅(単独)】
矢作第一ダムの堰堤の上から見下ろすと、閑羅瀬の集落が箱庭のように並んでいるのが一望できる。「こんな所にも人は住めるものだ」と思いながら、その集落へ一旦降りて県道に戻る。県道から三本松峠へは300mの登りだ。昔、閑羅瀬の子供たちはこの峠を越えて通学していたそうだ。
串原村柿畑地区は花と多くの石仏様が印象に残る静かな山里だった。その静寂を破るように温泉ボーリングと思われる機械の騒音が村内にこだましていた。県道へ出て明智川を少し下ると颪の登り口に着く。登りついた柏尾地区は林檎畑が多く、花も豊富だった。その静かさを破って近くのサーキット場から爆音が響いてきた。明智駅にデポした自転車で明智川を痛快にdown-hill。矢作川に出合うと、ダムまで押して歩くことが多くなった。[写真:閑羅瀬集落]


【1996-5-28 大多賀峠〜矢作第一ダム(同行者4人)】
この日で愛知・岐阜両県にまたがるラウンドが完成する。矢作第一ダムに車をデポし大多賀峠に向かい、ここから矢作ダムに向かって出発。国道153の伊勢神トンネルの上(伊勢神宮遥拝所)で1回目の乾杯。
近くにあった八百比丘尼像にお参りして進むと、自然歩道は愛知高原の丘陵地帯に入る。暑い。山の上にはワラビ、タラの芽などの山菜があり採集に手間取って行程が捗らない。弘法杉で昼食、ここで2回目の乾杯。
舗装された道を旭高原に向かう。アスファルトからの照り返しが強く汗が出る。旭高原につくとあちこちから焼肉を焼く匂い。家族でバーベーキューを楽しむ人々の中を行く。旭高原から一気に降下して矢作ダムへ。デポした車で大多賀峠へ戻る、大多賀峠で3回目の乾杯をして旅を締めくくった。[写真右:弘法杉での休息]