(備忘録)東海自然歩道最終ステージ 田貫湖〜高尾山


東海自然歩道を辿る旅もいよいよ大詰め。最終ステージは田貫湖から東の基点高尾山に向かいます。富士山の麓を時計回りに半周し山中湖へ。山中湖から東海自然歩道の最難所といわれる丹沢山塊に向かいます。富士川を渡る頃から同行者に恵まれ楽しく歩くことができました。特に本降りの雨の中、石老山コースを歩いてくれた井上氏には感謝しています。”いのさん”このブログを読むことがあったならコメントを期待しています。


【2002-8-13 田貫湖本栖湖(単独)】
前夜22:30頃、道の駅「朝霧高原」着。ここで夜を明かすことにする。標高900mの高原はさすがに爽やかだったが、寝袋に入ることもなく眠りに就く。朝5時ごろ目覚めたが寝不足はこの日のアルバイトの大敵。もうひと眠りして7:00頃起きた。
本栖湖湖畔に自転車をデポし田貫湖に戻る。期待していた富士山は雲の中だ。「今日は長丁場だ、明るいうちに本栖湖に着けばよい」そんな気持ちで9:40歩き始めた。
猪之頭集落の中でちょっとまごつく。畑とも、荒地とも、疎林ともつかない寂れた風景の中を行く。時々太陽が雲から顔を出す。そんな時は持ってきた傘を日傘代わりに広げた。
やがて行く手前方に巨大な施設が見えてきた。朝霧グリーンパークだ。真直ぐ北に伸びる道を傘をさして歩く。施設は塗装も剥げ人の気配もなかった。ゴーストタウンのようだ。向こうのほうから若者が数人こちらに向かって走ってくる。彼らはどこかでUターンして、また追い抜いていった。なんだか、ゴッホの描くアルル地方を歩いているような気分がした。つけっ放しのラジオから甲子園の歓声が聞こえてきた。やがて、東京農大の演習農場が見えてきた。先ほどの若者はここで合宿中の学生らしい。道端の宿舎では洗濯物が風になびいていた。彼らの青春の思いではこうやって作られていくのだろう。

車も通れるような道からいきなり山道となった。入り口に「熊出没注意」の看板があった。緩やかな山道をしばらく行くと、見渡す限りの草原地帯に出た。朝霧高原牧草地帯の一角だ。東屋の休憩場を過ぎると道はさらに荒れてきた。標識も所々にあるが、示す方向があやふやで間違えそうになる。とにかく忠実に山裾を辿って歩いた。14:20A沢貯水池着。草むらから脱出したという思いだった。
割石峠からまた、山裾の草むらを辿る道が続く。人の気配皆無。時々熊の気配に怯えながら、荒れた道をひたすら歩く。道は複雑に分岐していたが標識は少ない。25000図に示された破線は忠実に山裾を辿っているので、その通りに歩くうちに、やがて国道と平行して進むようになった。もう本栖湖は近い。帰途の自転車、割石峠までは押して歩くことが多かったが、峠からはdown-hillオンリー。なんとか持ちこたえていた空から雨が落ちてきた。合羽を着て、ブレーキ音をきしませながら暗くなった朝霧高原を突っ走った。【写真上:東京農大演習場手前の吊橋】


【2002-9-14・15 本栖湖〜大田和(同行2人)】
8月には若者や家族連れで賑やかだった本栖湖に、この日の午後人影はなかった。湖畔の駐車場に車をおき歩き出す。最初の目標は「国民宿舎本栖湖ロッジ」だが、跡形もなく更地になっていた。どうもオウム事件の後遺症らしい。本栖湖ロッジ跡から道は山裾沿いに伸びているはずだが標識は90度ずれて方向を示している。標識どおり進むと元の場所に戻ってしまう。2回繰り返したが同じだった。今思うと誰かのいたずららしいが、不安なって一度国道に戻ってから樹海に入った。
どこまでも陰鬱な樹海の中を行く。自殺防止を呼びかける看板があちこちにあり、チラシも置いてあった。

歩行者には会わなかったが自転車に乗った十数人のグループとすれ違った。富岳風穴から路線バスで本栖湖に戻る。他に乗客はなく、運転手氏は樹海にまつわる色々な話をしてくれた。
民宿「富士や」は清潔なペンション風で悪くなかったが、週末なのに客は他に一組だけ。場所がよくないのか経営は苦しそうだ。
2日目、富岳風穴の駐車場に車を置き再び樹海に入る。鳴沢の氷結で樹海を抜け、国道を地下道で潜ると地形は一変した。火山岩のごつごつした感じから、土の匂いのする道となった。三湖台でも、五湖台でも期待していた富士山は雲の中だった。【写真右上:本栖湖 右下:三湖台から樹海と本栖湖を望む】


【2002-10-12・13 大田和〜山中湖(同行一人)】
寝不足で体が重い。「今日は休養して明日がんばろうか」などと思いながら道の駅「朝霧高原」でひと眠りしたら元気になった。足和田山登山口に車を置き、14:15大田和集落の中を歩き始めた。背に当たる陽射しが暖かい。
国道を横断すると疎林地帯になった。疎林地帯を抜けると広々としたキャベツ畑だ。キャベツ畑の向こうに富士山が端正な姿を見せている。富士山に見守られながら歩いているという感じがした。
剣丸尾溶岩地帯を抜けビジターセンターに出ると「自然歩道」はここで一旦終わる。浅間神社前まではほとんど国道歩き。薄暗くなってから浅間神社に着いた。

2日目、浅間神社に車を置き、忍野八海を目指す。この日も快晴だった。生活道路と国道をつないで歩くことになるが、いたるところから顔を覗かせる富士山が単調な歩行の救いになった。
鐘山橋から忍野八海に通じる道は、絵に描いたような自然歩道で、碧のシャワーを浴びながら歩いた。忍野八海では観光客にもまれながら歩いた。楽しみにしていたハリモミ純林の道は、自然保護のため閉鎖されたようで標識もなく、入り口も分からなかった。
ハリモミの林を回りこむようにして「花の都公園」に出、大平山に連なる山並みのすそを巻くようにして山中湖へ出た。山中湖からタクシーで浅間神社に戻り、茶店で腹ごしらえしてから名古屋への長い帰途に就いた。【写真右上:富士山に見守られて歩く 右下:忍野八海


【2003-4-13・14 山中湖〜山伏峠(同行一人)】
湖畔の蕎麦屋で腹ごしらえをしてスタート。富士山を背にして湖畔を歩き出す。緩やかな車道を登り大平山へ通ずる尾根道に入る。立派な標識があり迷うこともない。
登るにつれて富士山はその大きな姿を「どかん」と見せるようになる。一汗かいて大平山へ。展望は申し分なし。目の前に富士山と山中湖の大パノラマが広がっていた。
山中湖湖畔は一大別送地帯だ。その一部は山の稜線まで進出している。別荘の裏庭を歩くような感じのところもあった。やがて、山中湖を巡る山の盟主とでもいう存在の石割山に出た。

平野を目指して下山開始。頂上下に石割神社のご神体(巨大な割れ石)があり参拝する。石割の湯経由で平野へ下山。湖畔を歩いていたら、車体に「ぐるりん山中湖」と書かれた巡回バスが来たので、これを停めて乗車。スタート地点に戻った。夕暮れ迫る湖畔の雰囲気を満喫してからかんぽに宿「山中湖」へ向かう。宿は部屋も食事も申し分なかった。【写真右:石割神社ご神体】
2日目。豪華な食事を腹いっぱい詰めて出発。平野の中継点に車をデポしてスタート。別荘の間を抜け、切り通し峠と高指山を結ぶ稜線に出た。4月中旬というのに春の気配はない。冬枯れの風景の中を一息登ると高指山だった。眼下には山中湖とマッチ箱のような別荘群が手にとるように見えるが富士山は雲の中だった。
up-downの多い稜線を辿って大棚の頭へ。ここが丹沢山塊への入り口だ。山伏峠へ降りる。今や廃屋になってしまった「山中湖ホテル」が時代の移り変わりを示していた。山伏峠からタクシーを呼んで平野へ戻る。運転手氏に「この辺の新緑はいつ?」と聞くと「1ヶ月早いです」という返事だった。山々に春の気配はなく、山中湖の桜のつぼみも固かった。



【2003-4-29 山伏峠〜道志の森(同行4人)】
28日、山伏トンネルを経て初めて道志村に入った。村は新緑があふれ、山桜はじめ花々で彩られていた。サンウッドキャンプ場にテントを張り終えてから「道志の湯」に浸かりに行った。
29日、道志の森キャンプ場に車を1台デポし山伏峠へ向かう。半月前に下りてきた道を登り返し、大棚の頭へ。いよいよ丹沢山塊山越えの開始だ。真っ青な空に富士山が輝いていた。山道はよく整備されていた。標高1200m前後の稜線は、やっと芽吹きを迎えたところで、所々に山桜が鮮やかなピンクのアクセントをつけていた。左手には御正体山がいつもたおやかな姿を見せ、まるで付き添われているようだった。
稜線は思ったよりup-downが激しく時間がかかった。やがて菰釣山へ到着。他のパーティと同じように富士山が見える場所に陣取って昼食。そして城ヶ尾峠へ。峠から道志の森キャンプ場へ下った。デポした車で山伏峠へ置いた車を回収。そのまま長駆神ノ川園地へ向かい、明日のために車を1台デポして、道志村の民宿「大屋さん」に向かった。宿で汗を流し、御馳走を肴にビールを堪能し明日に備えた。ところが夜半から天候が急変。春の嵐だ。30日、雨はやまない。計画を中止し、神ノ川園地にデポした車を回収し、花と緑に彩られた道志村を後にした。【写真上:稜線にて】


【2003-8-31 道志の森〜神ノ川園地(同行一人)】
定年は9月30日。ところが5・6・7月と体調が悪く、現役のうちに高尾山まで歩くという計画に黄信号がともった。時間的余裕もなくなり、夏の終わりにこのコースを1日で歩くという強行軍となった。夏の日、霧の中を10時間、丹沢の山中を歩いた記憶は忘れられない(特に相棒のがんばりが)。
前日夕方、道志の森キャンプ場に入った。夏休み最後の土曜日とあって、広いキャンプ場も空き地を探すのに苦労するほど混雑していた。道志の湯も子供たちで満員だった。

翌朝、テントをたたんで車に積み林道の最奥まで入り、7:00出発。長い一日が始まった。朝から霧が立ち込めていたが、高度を上げるにしたがってきりはますます濃くなった。汗まみれになって大界木山から畦ヶ丸山への稜線を辿った。畦ヶ丸山から大滝沢を900mの下降。特に危険はなかったが荒れた山道だった。
やっと沢を降りきって車道に出、西丹沢へ。薄日の射す中、用木沢出会いまでアスファルトの道を坦々と歩く。13:30用木沢出会い着。ここから500mの登りが控えているが、17:00に次男の待つ神ノ川園地に着く目処が立ち一安心した。出会いで十分な休みを取り最後の登りにかかった。相棒はかなり疲れているのでペースが遅い。
高度を上げるうちに霧は再び濃くなり、濃霧の中を黙々と登る。ふと気が付くと相棒がいない、遅れているのだ。そんなことが何回か繰り返された。15:30霧が激しく流れる犬越路峠へ到着。相棒は疲れ切っていたが、後は下りだけという安心感にも支えられ、約束の17:00丁度に神ノ川園地に着いた。そこには次男とその友人が迎えに来てくれていた。【写真上:犬越路峠】


【2003-9-8 神ノ川園地〜西野々(単独)】
前夜20:00神ノ川園地に着く。人気のない山中で一人ビールを飲む。聞こえるのは車の屋根を打つ雨の音だけだった。翌朝、雨はやんでいたが霧が深い。7:00出発。吊橋を渡り風巻ノ頭への登りにかかった。
5月、春の嵐で中止した時、道志の里から見上げた丹沢の山は、とても千数百mの高さとは思えない深さがあった。今、その主脈を登りつつあるという実感が嬉しかった。
100mほど前方を黒い塊がもそもそと動き、登っていくのが見えた。子供くらいの大きさの熊だった。8:50風巻ノ頭着。10:22袖平山着。10:45姫次着。全て霧の中だった。熊以外は誰にも会わなかった。

姫次は標高1433m、東海自然歩道の最高地点だ。富士山のビューポイントとして知られているが、この日は濃霧のスクリーンに樅の木立が映るのが見えるのみだった。富士山の眺めは楽しみにしていたが、激しく流れる霧の中に針葉樹が浮かぶ眺めも捨てたものではなかった。
姫次から西野々までは1000mの下りが続く。霧の中黙々と歩く。14:00西野々着。平日ということもあって長い稜線歩きで一人も会わなかった。携帯でタクシーを呼び神ノ川園地に戻った。丹沢が終わってしまったことを寂しく思う気持ちを引きずって、道志街道を山中湖方面に向かった。【写真右上:神ノ川園地 右下:姫次】


【2003-9-21 西野々〜相模湖大橋(同行一人)】
定年退職日まで後10日。最後の行程である相模湖大橋から高尾山の日程を27・28に設定したので、残された休日はこの日しかなかった。前夜、送別会が終わってからI氏と合流。雨の中相模湖目指して中央道を走る。長い距離一人でハンドルを握り続けてくれたI氏に感謝。どこかのPAでテントを張ろうとしたが、雨のため藤野PAで車中泊した。
翌朝、雨はやまず本降りになっていたが、計画通り歩くことにして藤野PAを出発、西野々に向かった。西野々の民家に車を置かせてもらい9:40雨の中傘をさして石砂山目指して歩き出した。11:10石砂山着。雨はやまない。霧の間から西野々の集落が一瞬垣間見えた。

一旦里に降り、篠原小学校の横から再び山道に入る。13:25石老山着。雨の勢いは増していた。篠つく雨の中顕鐘寺へ降り奇岩を見物する。自然歩道はさらに山裾を辿っているが、これ以上濡れるのを防ぐためと時間節約のため国道に出、そのまま鼠坂に向かった。
鼠坂からは相模湖ピクニックランドに張り巡らされた柵に沿って歩くことになるが、生い茂る夏草をかき分けながら進まなければならなかった。嵐山への分岐点から相模湖湖畔に降りる。相模湖から西野々にタクシーで戻り、車を置かせてもらった民家の人にお礼を言う頃、雨はやっと小降りになってきた。【写真右:石砂山から西野々集落を見る】


【2003-9-27 相模湖大橋〜高尾山(同行9人)】
最後の旅は10人乗りレンタカーを仕立てて名古屋を出発、昼ごろ相模湖に着いた。湖畔の駐車場に車を置いて賑やかに出発した。相模湖大橋を渡り、弁天橋で記念撮影をする。店の人にお祝いの言葉をかけていただき、相模川を渡り城山への登りにかかった。
城山山頂で大勢の人と共に眺めを楽しむ。終着の高尾山はもう目の前にある。城山から高尾山への道は緩やかな起伏が続くプロムナードだった。高尾山山頂に着く。ここで同行者とビールで乾杯。1400km余にわたる山旅に終止符を打った。【社員右:弁天橋】

東海自然歩道を全線歩こうと思い立ったのは、腰椎損傷から4年目の秋、1995年のことだった。それから8年余、最初に東海自然歩道を意識して歩き始めてから18年。歩いたコースと地域がすべて故郷のように懐かしく思われる。
畦道から合唱で応援してくれた蛙たち。木陰から美しい歌声を聞かせてくれたうぐいすたち。寒い季節に道端に実り、甘酸っぱい味覚を楽しませてくれた冬イチゴ。東海自然歩道を辿って歩いた旅は思い出に満ちている。【写真右:城山から望む高尾山】