肺ガン病棟にて-1(2010-6-21〜2010-7-1)

【手術直後】
「カトウサン」と、呼びかける声で目が覚めた。
それは、手術後の爽やかな目覚めだった。
が、次の瞬間、目の前に立つ執刀医から、奈落の底に突き落とされるような言葉を聞いた。「肺の下のほうにも細かいがん細胞がこぼれていたので、肺切除を止めました」。胸を開き、肋骨を切り、肺を調べた段階で切除をやめた??? その意味することは??目の前にはうろたえて、おろおろしている女房の顔があった。どういうことなんだ??

手術前、ガンの転移を調べるためにあらゆる検査を受けた。検査結果は「転移なし」だったので希望をもって手術に望んだ。ところががん細胞の活動状況を画像で見るPET-CT(陽電子放射断層撮影)の説明書に、「PET検査のみですべてのガンを描出できるわけではない」と書かれ、肺癌の一部・5mm以下の小さなガンなど例が説明されていた。手術同意書にも「手術内容の追加ないし変更が必要となる場合もあります」と書かれている。


”肺の半分だけ切除する予定だったがこの状況では全部摘出しなければならない。全摘をしてもガンが治癒する保証はない。QOLの確保のためにもここは切らずに戻したほうがよいと判断した。全部とってしまうDr・もいますけど、私はやりません”
毎週肺がんの摘出手術をしている、目の前の執刀医の言葉を信ずるより仕方がない。
体中をチューブにつながれて個室へ。病室からは自転車でよく走った養老山地を背景に名古屋城が見える。夜はライトアップされ夜空にお城が浮かび上がる。なかなかの眺めだ。病室からの眺めは、退屈で苦痛に満ちた入院生活の気晴らしになったかもしれない。多少は。



【チューブだらけ】
手術直後、身体は5.6本のチューブにつながれて身動きが取れない。この不自由な状態も癌が切除されたことの代償と思えば我慢もできる。しかしちがうのだ。ガンはそのまま残され進行しているだろう。すべては運か。四日後すべてのチューブが外された。その開放感! だが虚しい開放感だった。


【肺癌病棟】
ソルジェニーツィンの名作に「ガン病棟」というのがある。ずいぶん昔呼んだ記憶がある。もう一度読みたくなった。shigeが入っている8階西病棟は呼吸器疾患の病棟だ。ほとんどが肺癌患者だと思われる。つまりここは「肺がん病棟」だ。

shigeの病室はその一番奥、ナースステーションからもっとも遠いところにある。一番奥で幸いだった。夜、消灯後長い夜が始まる。ナースステーション辺りの病室からは、呻き声、肺が飛び出してきそうな激しく長い咳、その他さまざまな地獄の底からの声が聞こえてくる。そんな病室の隣にいたら一夜が悪夢だ。ただでさえ長い夜なのに。
窓の外には名駅近くの高層ビル群の夜景がまばゆく輝く。その魅惑の世界とはあまりにもかけ離れた現実がここにある。

【間仕切りカーテン】
どの病室でもベッドを囲むように間仕切りカーテンがある。このカーテンはDr・の回診時に必要なことがある。また、人と係わりを持ちたくない人にとってはカーテンでベッドを囲い込むことによって自分の世界にこもれるからいいかもしれない。
だが、多くの場合、廊下側のベッドになった人は不運だ。窓側のベッドの人はまだいい。窓越しに外の世界の景色が多少は気を紛らわせてくれるだろう。ところが廊下側のベッドになった人は一日中、仕切られた狭い区間に居続けることになる。これは一種の監禁状態に近い。精神的に圧迫・閉塞感が強くなり、病気の治療にも影響するだろう。鬱にだってなりやすい。

個室から大部屋に移ったshigeのベッドは廊下側だった。自分のカーテンを開放しても隣のカーテンで密室状態はあまり改善されない。これはいかんと思ったshigeは隣のベッドの畳屋さん(63歳)と仲良しになりカーテンを開放してもらった。そうすることによって窓外の景色を手に入れ、ベッドの上からも都会の夜景が見られるようになった。こんな些細なことが入院生活では大きなウエイトを占める。
「カトウさん、夕焼けきれいだよ」 畳屋のTさんの声に窓際へ行ってみる。夕陽が伊吹山の向こうに沈もうとしていた。お城の向こうには養老山地のシルエットが懐かしい。あの麓と峠は自転車で走り回ったエリアだ。
間もなくTさんはこの景色に背を向けて激しく咳き込み始めた。


【死の臭い】
高速電動ノコで肋骨を切るときに出る煙の臭い。それがこの死の臭いの正体。手術で肋骨を切っているのでせきこむと激痛が走る。それ以上に気を滅入らせるのは、この、体内からにおってくる「死の臭い」だ。同室の手術経験者は、これを「骨の焼ける臭い」と表現していた。


【窓は開けられない】
入院する前に、ちょっと身辺整理しようと思い、本を何冊か捨てた。その中に岩波現代文庫「なぜ私だけ苦しむのか」というのがあった。これは現代版「ヨブ記」ともいえるものだが、ほとんど読まないまま捨ててしまった。それが、今回shigeに降りかかった。どうして? なぜ? 肋骨を切って胸を開き、肺を切除する前に調べたら想定外だったからそのまま閉じたなんて・・・・・・
身体への負担はハンパじゃない。その間にもガンの治療は遅れ、進行しているだろう。そこで病室の窓が10cmしか開けられないことの理由が理解される。ここは8階。下はコンクリート。その気になればすぐ楽になれる選択肢を閉ざすためだ。


ナースステーションの前に七夕に使う竹が置かれた。shigeもお願いをした。抗がん剤で苦しむ同室の人を見ていると、やがてshigeも、と思う。悲嘆と苦しみから窓を開けたくならないように、少しでも副作用の少ない抗がん剤を!と願わざるを得ない。



【TRY-BALL】
手術後の肺機能を回復するためにこのお遊びをする。息を大きく吸い込んでボールを吸い上げるのだが2ヶ上げるのが精一杯。3ヶ上がったので看護師のお姉さんに記念撮影してもらった。
【吸入】
水蒸気を吸い込んで喉をケアする、喘息患者が使うお馴染みのやつ。「水の代わりに酒を入れたい」と冗談を言ったら畳屋のTさんは笑っていた。ところがカーテンで仕切られた向かいのベッドに看護師の姐さんがいて聞かれてしまった。ここは冗談でも「入れてあげましょうか?」と言って欲しかった。暗い病室には明るい話題(たとえそれがアホな話であっても)が必要だ。



【イタイ! ウルサイ! ウマイ!】
病棟には高齢者が多い。必然的にボケとか、心に異常を来たす患者が出現する可能性が高くなる(ただでさえ苦しい闘病生活だ)。遠くの病室から間断なく叫び声が聞こえてくる。最初は何を言っているのか分からなかった。毎日聞いているうちにおぼろげながら分かってきた。イタイ! ウルサイ!、ウマイ!を状況に応じて使い分けているようだ。
看護師のお姉さんにスプーンで食事を口に入れてもらった後にウマイ!と叫んでいるのをはっきりと聞いた。
これは標準的な夕方の病院食。これを口に入れてもらうたびに老人は、ウマイ! ウマイ! と叫んでいた。