川越の畦道・垣根道散策

福島の原発が暴発した時、腰を抜かした政府と東電が情報を隠したため福島の子供たちは大変な被曝をしてしまった。一刻も早く逃げるべきだった。車では渋滞する。原発のある自治体の各家庭に避難用のオートバイを置くべきという意見は正論だった。原発と共存することはダモクレスの剣の下で生きることだ。この子供たちの体に将来異変が起きたとしても、誰も責任を取らない。今現役の人たちは引退してしまっており、体の異変と放射能の因果関係については、厚生労働省の役人と「専門家」と「学識経験者」の間で、また際限のない議論が交わされることだろう。もう水俣で経験したことだ。
原発による放射能の危険性については柳沢佳子さんが20年以上前に警告している。細胞分裂の盛んな幼児の体に何が起こるか、考えただけでも恐ろしい。ステージ4の肺がんと宣告された前期高齢者の私でさえ、8週間ごとの胸部腹部CT撮影による被曝が怖いのだ。
これだけの騒ぎになっても原発が停まるとは思えない。エアコン抑制による熱中症死の増大という「事象」の前に、電力不足による経済成長率低下を憂う声に原発反対の声はかき消されるだろう。定向進化論は真理か?


そんなこと?より、お前さん、自分のことを考えた方がいいんじゃないのか?
当たるも八卦、当たらぬも八卦抗がん剤治療しかやらない(やれない)ガン拠点病院を見限った私が尋ねたのは、埼玉県川越市にある帯津三敬病院。
ここの名誉院長の著書に惹きつけられた私は帯津教の信者のようなものか?
ここで2週間の体験入院をすることにする。末期がん患者の体験入院だ。病院の前には広い田圃が広がっており、整然と植えつけられた苗が順調に生育していた。

病室からの眺め。
外は見渡す限り田圃が続き、その向こうに川越市街地の街並みが続く。
夜は蛙の大合唱を聞きながら眠りに就く。

川越駅方面の夜景。
この景色をみながら2週間すごすことになる。


入院といっても特にすることは無い。午前中に検温、血圧測定が終われば何もすることはない。
午後から道場で各種気功や太極拳の練習をする。歌の練習もある。歩けなくても参加の意思表明をすれば、病院スタッフがベッドに寝たままでこの道場に連れてきてくれる。そして患者交流会も。
ここでさまざまな経験談が交わされる。大学病院やがんセンターで人格を持った個人として扱われなかったこと。臍を咬むような話も多い。
慰めあいではない。コミュニケーションを通して場を高め、治療の一環とする。



午前中は特にすることもないので散歩に出る。
田圃の畦道や昔ながらの農家の庭先で交差する路地をよく歩いた。
初日、路傍に石仏様を見つけ、期待に胸膨らんだが、
見つけたのはこの御一体だけだった。
何を考えてござるのか・・・・


広々とした田圃の中の細い道を気ままに歩く。
暑気を含んでいるが稲穂を渡って来る風が気持ちよい。


蝶を撮るために時々足をとめる。
動きが早くて撮るのが難しい。


足下にもいる。
こいつは用心深くてもっと難しい。


足下でごそごそ動くやつがいた。
ザリガニだ(名古屋ではエビガニと言っていた)。
子供の頃、動物性たんぱく質が乏しくてこいつの下半身の肉をよく食ったものだ。
天麩羅とか煮付けにした。
おまえさんの御先祖にはほんとにお世話になったものだよ。
ありがとう。


車が来ると水路に落ちないようにしてやり過ごす。
苦労して避けたのに知らん顔して行き過ぎられるといい気はしない。
若い女性に多いような気がした。
「私が通るのだから避けてよ」
統計を取るとおもしろいかもしれない。


田圃の中は木陰がない。
しばらく歩いていて暑くなって来ると、
生垣のある農家が散在するほうへ足が向く。


生垣のある木陰でほっと一休みする。
人通りもなく静かそのものだ。


生垣から生垣を求めて、
行き当たりばったりに歩く。
見知らぬ土地をこうやって歩くのも楽しいものだと思った。
一瞬、武蔵野を彷徨した国木田独歩を思い出した。









日曜日は道場も閉鎖され何もすることがないので川越市街へ出かけた。川越線南古谷駅まで徒歩13分。川越の蔵造りの町並みを歩いてきた。
伊勢のおかげ横丁を思い出させるが、こちらは歩道も狭く車も通るので気が休まらない。暑かった。


2週間の期限が来た。
この間に田圃の苗の緑も濃くなって来た。
さあ、一度名古屋へ帰って出直そう。