大旅行

近頃寒い日が続く。風花がよく舞うようになってきた・・・・・・。
と、思っていたらそれは風花ではなく、タンポポの胞子だった。タンポポはその分身をいっせいに大空に放ったのであった。
それにしても多い。まるで乱舞するように空中を浮遊している。こんなに空一杯胞子が浮遊するのを見た記憶がない。


屋根に積もったタンポポの分身たち。
強い北風でかなり飛ばされているから実際はこの何倍かの胞子が降り立ったに違いない。
ベランダに干した布団をしまう時も大変。
はたいてはしまうのだが全てを取りきれるものではない。
寝ているうちに布団にタンポポが花開くかもしれない。
てな阿保なことを考えながらもっとよく見てみる。



おまえさんたちはこんなとこに降り立ったって芽をふくことができない。
でも、庭にも同じように降り積もっているはずだから、
春になったら今度は地上でタンポポの乱舞が見えるかも。
そしたらお浸しにして喰おう。タンポポのお浸しって聞いたことがあるぞ。
またひとつ楽しみが増えた。
で、暇だから、
もうちょっと余分なことを考えた。
この辺りでタンポポの群落なんて見たことがない。
こいつらはどこから飛んできたんだろう。
ひょっとすると、東北の地に子孫を残すのを、タンポポのDNAが嫌ってこの地方まで飛んできたんじゃないか。か弱い蝶だって海を越すのだ。胞子が風に乗れば数百キロなんて簡単に飛ぶだろう。人間だって逃げ出すことができる人は逃げているんだから。
これは意外と阿保な話じゃないかもしれない。胞子に聞いて見なければ分からないが・・・・・

今日は大晦日

今日は大晦日、穏やかな天気だ。まず庭の植物達に挨拶。

まず一昨年、佐久平塩爺に教わって株分けした水仙
今年は元気がいい。
仲間が増えそうだ。




次に6月に植えたスティックブロッコリー。成長が遅く心配していたがやっと我輩の腹に納まるぐらいに成長してきた。葉は虫に食われて原型を留めないが、よく芽を出してくれたものだ。胸がときめくぞ。


で、今日は大晦日じゃないか。陽は暖かいし、俺も走り収めに行こう!
サイボーグみたいな人たちの真似はできないが俺だって走り納めがしたい。



新舞子マリンパークから走り出す。
穏やかな日に見えたが風はけっこうありこの寒空ヨットサーフィンに興ずる人たちがいた。
左の人はオイラほどじゃないがけっこう年配の人だった。

常滑の焼物散歩道へ入る。
今日は大晦日だ。
店もしまっている。
歩く人も少ない。
だが、あのみたらし屋は開いていた。
1本70円のみたらしを食いながら歩く。


常滑焼き物散歩道の一番の名所「土管坂」


人影の薄い焼物散歩道の中でもここだけは大賑わい。
地域の人たちの餅つき大会だ。
オイラも明日の朝は雑煮だ。
食欲満点で雑煮を食える幸せなことよ!
20kmのポタリングは幸せなうちに終わった。

今年も終わりだ。まだ元気だぞ

呼吸器の専門医に宣告された余命期間はあと10日余り。元気に年を越せそうだ。久しぶりにブログを書いてみようという気になった。

11月某日大日山金剛院を訪ねる。おばば様の怒りを聞く。
40年来の山友イノサン夫婦と金剛院を訪ね、おばば様のご機嫌伺いに出かけた。山を荒廃に導いた林野行政に対するおばば様の怒りを1時間ほど伺って退散。山に住むおばば様の危機感が伝わってきた。
増えた猪や鹿が喰ってしまうので、来春の山菜は送れないかもしれないという。



金剛院の玄関に飾られた遅れ咲きの石楠花。庭には石楠花畑があり、何輪かはこの寒空に花を咲かせていた。





秋の台風で山は大荒れになったという。本堂に倒れるのを防ぐため杉の大木が切られていた。


11月下旬、川越へ
11月下旬、帯津三敬病院へ入院。特に容態が悪くなったわけではない。名古屋のガン拠点病院Dr・の余命告知期限を1ヵ月後に控えて、こちら側の体制を整えようとしたわけでもない。6月に退院した時から決めていた予定入院だ。9日間滞在して気功とか太極拳にいそしんだ。



前回は病室から広い田圃が見渡せたが今回は反対側。
病室の下は保育園。昼間は賑やかな音楽と黄色い声が聞こえる。

空いた時間にお決まりの如く散歩に出る。
6月の時には青々とした田圃も今は荒涼としている。
畦道に咲く草も花もない。ときめくものがない。




と思いつつ、垣根道の外れに来たらいきなり富士山が。胸がときめいた。



右の方を見れば川越の町並み越しに三角の山が目立つ。
近くの人が武甲山だと教えてくれた。



或る日、隣の病室の人が亡くなった。看護婦が大きな声で名前を呼んでいたと思ったら、1時間後にはもう病室から運び出されていた。
昼間はあまり気にならないが、夜になるとモニターのピッ、ピッ、ピッという音が廊下に響き渡り、病室にも聞こえてくる。あの音が途絶えた時が一人の命の終わりだ。
夜、4階の多目的ホールから街の灯を眺めながらよく話し合った。ガンについて、西洋医学について、代替医療について。みんな深刻な病状を抱えている。
遠くから来ている人もいる。北海道から九州から。地元のガン拠点病院での治療を諦めて、この川越まで来る間にどれほどの迷いと逡巡と決断があったことだろう。
「カトウさん、元気だよ。今年中に死ぬと言われた人に見えない」。そうさ、なんとなく近々死ぬ気はしないよ。でもジタバタはしないようにするつもりだ。
週末、浦和に住む新ちゃんの好意で外泊。喜多院から川越の蔵作りの町並みを歩いた。線香は喜多院本堂前。うまく火がつかないのでろうそくに一生懸命かざしていたら、煙が出る前に多くの部分が燃えてしまった。

時の鐘を見て、菓子屋横丁でニッキ飴を買って、
浦和の新ちゃん宅でささやかな忘年会。
わずかな沖縄焼酎が五臓六腑に染み渡った。



頻尿で夜何回か起こされながらなんとか睡眠を確保して、
翌朝、勧められた方向目指して朝の散歩。
7.8分歩くと桜並木が続く小さな川に出た。
ランナーのお姉さんが会釈して追い抜いていく。


9日間の入院生活が終わった。
川越のおもちゃやで買った竹とんぼと、
川越名物の芋菓子をガラガラに詰め込んで病院を後にする。
病院運営の送迎バスに乗り込んだ御婦人は今から札幌まで帰るとのことだった。


12月某日4040三重のポタに参加
4040SNSの掲示板にポタの案内が出た。60km未満、獲得標高わずか。食指をそそる内容だ。ポタと言ったって4040の皆さんのスピードは速い。ついていけるかな、足を引っ張っちゃいかんし。逡巡していたがよく見るとコースはひょうたん型をしている。瓢箪の半分なら走れるだろうと「参加する」をポチッと押した。

朝起きられず2時間遅れで現地着。
コースを逆走すれば合流できるかもしれない。ほとんど諦めて四日市港辺りを走っていたら前方から自転車の一団。
ラッキーなことに無事合流できた。
久しぶりの集団走行。
すぐ後につけば風も避けられて楽チンだ。
マグロ会館の海鮮丼の豪華さに目を回し、無事30km弱を走りきった。
集団走行はやはり楽しい。




12月某日、冬の接待熊野古道再訪

8年前に継続して歩いた熊野古道のうち
馬越峠を歩くことにした。
石畳は美しく距離も短いので
今の自分にはちょうどよい。



一部、林が切り払われて
タラの木が栽培されたりしていたが。
雰囲気は昔と変わりない。


峠の尾鷲側で登って来る高齢者と出会った。
この上の天狗倉(てんぐら)山522mに毎日かかさず2回登っているという。
もう10年以上続けているから登頂は7000回を超えている。
ギネスブックに確実に載るよ、と笑っていた。


尾鷲側に降りる。
名残の紅葉の向こうに尾鷲湾が、
その向こうに八鬼山越えの山々が見える。
いつか再びあの山越えができる体力を、と思う。

尾鷲側の記念碑の前でパチリ。
このあと尾鷲駅前の鬼瓦食堂に入る。
先日高山駅前の食堂で
千数百円したランチが驚くほど貧しかったので、
1500円の幕の内弁当を注文した。
これが大変な御馳走で喰いきれない。
パックをもらい、
残りを詰めて持ち帰り
その日の晩酌の肴にした。
おしまい。

ようやく高山へ


2008年5月に始めた飛騨街道歩きも、長い中断の期間を経てようやく高山へ到着する日が来た。
道の駅「加子母」を出て1時間あまり、宮峠を越えると飛騨一ノ宮の町が広がる。
ここが今日の出発点だ。

飛騨一ノ宮駅。
時間が止まったように静かだ。
駅横の広い空き地に駐車し出発。

宮川の流れに沿って歩く。
紅葉もぼちぼちだ。




対岸の国道を走る車の流れを横目にして、静かな旧道が続く。


熊が出そうな雰囲気だったので声を出しながら歩く。
鈴を持ってくればよかった。
歩く人もいない。
車も来ない。
どこまでもこんな道が続けばよいがそうはうまくいかない。




松橋の石仏様で旧道は途切れた。すぐ横を車の流れが途切れない。ここで、道の駅で仕入れた朴葉寿司を広げ、石仏様にお見せしてから自分の腹に入れた。  この後は国道を車とともに歩く。山が迫り、緑が多いのが救いだ。


やっと高山市街に入る。
車の騒音とももうすぐお別れだ。
ヤレヤレ・・・・


高山市街の旧道に入る。
静かだ。
おばあちゃんが一人歩いているだけ。

この赤い欄干の橋まで来ると、
どっと観光客の群れ。
カメラに人が入らないようになるまで数分待った。

人の流れに身を任せて、
国の重要伝統的建物群に指定されている土産物街へ。
10kmも歩いてないのにいやに疲れた。
ふらふらしていると突き飛ばされそうだ。


疲れた足を引きずって高山駅へ。腹が減ったので駅前のうどんそば屋へ入った。
期待はしていなかったがそれにしても粗末な食事でがっかり。観光客には食事が出るまで分からんからやっていけるのか?

列車の待ち時間が1時間以上あるのでタクシーで飛騨一ノ宮駅へ戻る。


せっかく自転車を積んできたから乗らなきゃ。水無(みなし)神社まで走った。
あっというまに着いた。
「昔、高山の人々は元日に歩いてこの神社に参拝した」と、タクシーの運転手が教えてくれた。
往復4里の道を歩いて参拝。飛騨の一宮神社の権威が窺い知れる。
1.5kmのポタリングを終えて駅へ戻った。

再開した飛騨街道歩行

熱田の宮「七里の渡」から北陸富山城まで日本を横断する飛騨街道。これをなるべく旧道を利用して歩こうとして始めた飛騨街道歩き。高山を目前にして一昨年秋から中断していた。体は回復したんだろうか? 毎日1時間の散歩でも疲労を覚える。でも、高山までは歩きたいなぁ。たとえ一駅づつでも。
秋晴れが続く日々の一日、思い切って飛騨街道歩きを再開した。一駅でも歩ければいいじゃないかという思いで。



前夜、路の駅「加子母」で車中泊
ここは以前bianchiを積んで泊まったお気に入りの場所だ。
寝台車NOAHyyで足を伸ばし、白川のせせらぎを子守唄にして眠りにつく。
トイレの清潔さと明るさをかみさんもほめていた。
翌朝、掃除のおばさんに出会い、お礼を言った。


渚駅に着き、歩き出す。ところが腰椎の古傷が騒ぎ出したみたいで、3kgにもならないザックを背負っただけで足に痺れが来た。まずいことに腰椎サポーターも忘れてしまった。
荷物を余分に分けたかみさんのザックのほうがずっと重い。それでも調子が悪いので窮余の策、手をベルトの下に入れ腹を押さえながら歩くことにした。腹圧をあげ腰椎を楽にしようという作戦だ。
車からこの姿を見た人は、下痢をこらえて歩いている姿に見えたことだろう。昔、30kgを越すザックを背負って1週間も冬山に籠もったのが夢のようだ。


多くは国道41を歩くことになるが、旧道らしき脇道があればそちらを選んだ。
ずっと利用してきたガイドブックは著者の回顧の念があふれているみたいで、その通り歩こうと思うと崖の上やら、密生した樹木の中を行かねばならんことも多い。
旧道だと思って入った道が行き止まりになっていたなんてこともあった。
彼岸花に見送られて歩く静かな旧道は楽しい。


ダリアも笑顔で見送ってくれた。


道端にりんごも出迎えてくれた。






そんな癒しの道は少なく、多くは国道41を歩くことになる。歩道があればまだしも、こんな所もある。人は歩いてはいかんと言ってるみたいだ。車のことしか考えない道路行政の見本がここにある。



こんな危険なところは誰も歩かないので栗が一杯落ちている。
道端にしゃがみこんで栗を拾っていると、
大型トレーラーが背中をかすめて行った。


再び旧道へ戻るとモーさんが出迎えてくれ、


籾殻を燃やす風景に出会った。
煙突を立てるなんて頭がいい。
この中にサツマイモを放り込んでおくとホカホカの焼き芋ができる。
子供の頃、籾殻で芋を焼いてよく喰ったものだ。


路の駅「加子母」で買った朴葉寿司。
650円だったが、売り場のお兄さんが
「昨日の奴が残ってます。こちらのほうが味が沁みこんで美味しいですよ。半額にしときます」という。
土手の草むらに座って食った朴葉寿司。
味がよく沁みこんでいて旨かった。

渚から一駅、久々野駅に着いた。
寄り道回り道ムダ道をしているので3時間かかっている。
体調がよかったので次の駅飛騨一ノ宮まで歩くことにする。
2時間あるので大丈夫だろう。


途中にわか雨で雨宿りしたり、宮峠近くで今どこにいるか分からなくなり農家を2,3軒尋ねたが留守。時間がどんどん過ぎていく。
通りがかった車を止めやっと現在位置が分かった。
これは宮峠の石仏様。
飛騨一ノ宮駅はまだ遠い。余裕がない。予定の列車を逃すと2時間待ちだ。
国道41を車とともにわき目もふらずに歩く。
日本の原風景を思わせる山里に心惹かれ、シャッターを押したが、立ち止まって写す余裕がない。歩きながら写した写真はぶれがひどかったり、写ってなかったりだった。
余裕をもって歩きたかったが息せき切って歩くことになってしまった。
体への負担がふと脳裏を掠めるが、「ガンの長期生存者に共通することはよく歩くこと」と言った柳原和子さんの言葉を支えに、人工肛門をつけながらフルマラソンを走っているOさんの姿を思い浮かべて歩ききった。



飛騨一ノ宮駅に入る美濃太田行き。
滑り込みでセーフだった。
4両もつないでいるが1両に数人のお客。
シートに深く身を沈め、朴葉寿司の残りを平らげた。

花沢の里と蔦の細道


爽やかな秋晴れの一日、山にひっそりと囲まれた「花沢の里」(焼津市)へ行ってきた。
ここは、この辺りの山の登山口だ。もう5,6回目の訪問だろう。
自転車を持ってきたが坂道の連続でほとんど乗ることはなく押して歩いた。


里の外れにある法華寺。桜の季節もいいが、この日は彼岸花が見ごろだった。
境内にあった石碑に「一隅を照らす、これ即ち国宝なり」の一文があった。品性を疑う野次の乱れ飛ぶ国会議員の皆様にお見せしたい。本堂の縁台で習いたての太極拳を舞う。



帰りは下り坂。里に乱れ咲く彼岸花を眺めながらペダルも踏まずに下る。
赤いのばかりだ。
法華寺で掃除をしていたおばさんに尋ねたら、白や黄色は花壇にならある、とのこと。
いや、赤で十分。彼岸花は赤くなくちゃ。



花沢の里で2kmのポタリングを楽しんだ後、
宇津の谷に残る古道「蔦の細道」へ向った。
今でも歩く人がいるらしく細々と踏み跡が残されている。
渓流沿いに登るが流れが汚れている。
結局、上流に人工物は何もなかったのに何故流れが汚れていたのだろう。
不思議だった。



30分ほどで登りついた宇津の谷峠。はるか彼方に満観峰が頭を覗かせている。懐かしいなぁ。あの桜が花をつけたら一服の絵になるだろう。




峠から降りて、すぐ近くにあるお気に入りの場所、間の宿「宇津の谷」へ向かった。
人っ子一人居ない静かさだ。
腹が減ったので看板の蕎麦屋へ行きたかったが、先日越前大野で高い蕎麦を食わされたかみさんの反対でお預けとなった。

彼岸花と串カツ

5月に木曽谷の新緑を楽しんで以来TREKに乗っていない。この日は私も末席を汚している4040clubの連中が彼岸花と串カツを求めてお千代保さんへ集まっているはずだ。木曽三川公園を起点にすればお千代保さんまで往復40km弱。登りもない。「よし、行ってやろうじゃないか」と思い、物置で埃を被っていたTREKを車に乗せた。4ヶ月も乗ってないので、タイヤは指先に力を加えなくても軽く凹んでしまうほどになっていた。


よくお世話になった木曽三川公園の河川敷駐車場。
養老の山並みが穏やかだ。
あちこちでBBQを楽しむ家族連れがいて、焼肉の匂いが一杯だ。
橋を渡り輪中地帯へ。



成長するトウモロコシ。
トウモロコシは夏の野菜だと思っていたが、これから秋にかけて生育するものもあるんだ。



お目当ての彼岸花。津屋川まで行くと群落があるそうだがこれで満足する。黄色はあまりお目にかかれない。行きはかなりの追い風で知らない間に30km/hを越えている。帰りが心配だ。



13:00頃、お千代保さんに着いていつもの自転車置き場に行く。
5,6台の自転車がまとめておいてありブロックパターンの小径車がある。これに違いない。連中はまだいるのだ。
鍵を忘れたので長く離れるわけにはいかない。なんとか串カツを食いに走り、かみさん御所望の奈良漬を手に入れた。
置石の上に座って握り飯を喰ううちに、人混みの中から4040のジャージーが現れた。


一人去って(シマッチさん)一人加わったので(私)総勢6人に変わりなし。主に大江川に沿って木曽三川公園を目指す。
向かい風が強く病弊して衰えた体力は徐々に離されていき、しんがりを走る。この向かい風をものともせず悠々と走る4040の人々。ネーミングにふさわしくない?
これは海津温泉近くの釣り場に集う太公望の群落。ビリになりついでにちょっと一枚。



立田橋の袂で連中とお別れ。
太ももが痛い。
後姿を見送りながら、集団走行はそろそろ無理かなと自問自答した。